太宰治の『人間失格』は、20世紀の日本文学において重要な作品の一つとして広く認識されています。その販売部数は夏目漱石の『こころ』と競うほどであり、永続的な人気と文学的重要性を示唆しています。
1948年に発表されたこの小説は、太宰自身の経験と多くの類似点を持つ半自伝的な性質で知られています。主人公である大庭葉蔵(おおば ようぞう)は、太宰自身の自己像とも言える存在であり、「作者の分身」とも評されています。
本記事では、『人間失格』のあらすじを詳細に記述し、主人公・大庭葉蔵の生涯における重要な出来事と心理的な変化を分析。さらに、作品の主要なテーマと太宰治の意図について深く掘り下げていきます。
『人間失格』のあらすじ
物語は、読者を引き込む「はしがき」から始まります。
はしがき:三葉の写真
語り手である「私」は、ある人物から三葉の写真を見せられます。それは、主人公・大庭葉蔵の幼年時代、学生時代、そして晩年と思われる姿を捉えたものでした。
語り手はこれらの写真から奇妙で不気味な印象を受け、特に幼年時代の写真に写る子供の笑顔には、「見るほどに嫌な薄気味悪いもの」が感じられたと述べています。この出会いが、語り手を葉蔵の手記へと導き、物語が展開していきます。
第一の手記:道化の始まり
続く「第一の手記」では、葉蔵自身が語る幼少期から青年期までの回想が描かれます。葉蔵は、幼い頃から人間社会に馴染むことができず、「人間の生活というものが、見当つかないのです」と感じていました。
彼は、自分にとって人間の営みや生活が全く理解できず、世の中の人々が持つ幸福の観念と自分のそれが甚だしく食い違っているのではないか、という不安に常に苛まれています。そのため、他人との間に壁を感じ、何をどう言っていいのか分からず、ほとんど会話ができませんでした。
このような状況の中、葉蔵は周囲と繋がり、他人から疎まれず、叱られないように「道化」を演じることを覚えます。表面上は常に笑顔を作り、無邪気な楽天家を装うことで、内面の苦悩や人間に対する恐怖を隠していました。
しかし、体育の授業中にわざと失敗したところを同級生の竹一に見抜かれ、「ワザ、ワザ」と言われた経験は、葉蔵にとって完璧な仮面を剥がされたような衝撃であり、後々までトラウマとして残ります。また、幼少期には女中や下男から「哀しい事を教えられ」ても、誰にも言い出せず、ただ笑って過ごすしかなかったという経験も語られています。
第二の手記:悪徳と破滅への序章
「第二の手記」では、葉蔵の旧制高等学校時代が描かれます。人間への恐怖を紛らわすために、悪友である堀木正雄と出会い、酒、煙草、淫売婦、そして左翼思想といった様々な悪徳に浸るようになります。これらは葉蔵にとって、醜悪に見える人間の営みからひとときの解放をもたらすものでした。
堀木は葉蔵にとって酒や女を教える存在であり、彼との交流を通じて人間への恐怖を紛らわせようとしますが、同時に破滅的な人生へと足を踏み入れていきます。
その後、葉蔵は銀座のカフェで働く女給のツネ子と出会い、彼女と心中を図りますが失敗。ツネ子だけが命を落とし、葉蔵は一命を取り留めたものの自殺幇助罪に問われ、高等学校を追放されます。最終的には父親と取引のある男を引き受け人として釈放されますが、葉蔵の精神状態は依然として不安定なままでした。
第三の手記:人間失格へ
「第三の手記」では、さらに破滅へと向かう葉蔵の人生が描かれます。
堀木の紹介で知り合った未亡人で記者のシヅ子の家に身を寄せ、漫画家として生活を始めますが、世間からの批判や自己嫌悪に苦しみ、シヅ子の元を去ります。
その後、バーのマダムの家に泊まり込むようになり、そこで出会った向かいの煙草屋の娘である純粋なヨシ子と内縁関係になります。ヨシ子との生活で一時的に平穏を得られるかと希望を持ちますが、ヨシ子が出入りの商人に汚されてしまったことで、葉蔵は再び精神的に深く傷つき、ヨシ子が隠していた睡眠薬で自殺を図ります。
一命を取り留めたものの、葉蔵の苦しみは終わりません。酒と薬に溺れる生活を送り、ついに父親にすべてを告白する手紙を書いた後、脳病院(精神病院)に連れ込まれ、「人間、失格」を悟ります。
父の死後、葉蔵は故郷の田舎に引き取られ療養生活を送りますが、そこで彼は「いまは自分には、幸福も不幸もありません」と語るのです。
あとがき:残された言葉
物語の最後は「あとがき」で締めくくられます。再び語り手が登場し、葉蔵の手記と三枚の写真が、スタンド・バーのマダムから「何か、小説の材料になるかも知れませんわ」と言われて渡された経緯を語ります。
語り手が葉蔵の消息を尋ねても、マダムも彼の現在の居場所や生死を知りません。マダムは、葉蔵のことを「人間も、ああなっては、もう駄目ね」と言いながらも、最後にはこう振り返ります。
「私たちの知っている葉ちゃんは、とても素直で、よく気がきいて、あれでお酒さえ飲まなければ、いいえ、飲んでも、……神様みたいないい子でした」
また、マダムは葉蔵の父親が悪かったのだとも語っています。
キャラクター | 葉蔵への影響 |
---|---|
竹一(葉蔵の中学の同級生) | 葉蔵の道化を見抜き、不安と恐怖を与える |
堀木正雄(葉蔵の高校時代の悪友) | 酒、煙草、女、左翼思想を紹介。葉蔵の破滅的な人生の始まりを促す |
ツネ子(カフェの女給) | 心中未遂により葉蔵に罪悪感と孤独感を与える |
シヅ子(未亡人のジャーナリスト) | 同棲し葉蔵に束の間の安定を与えるも、最終的に別離 |
ヨシ子(煙草屋の娘) | 内縁の妻。葉蔵に希望を与えるも、事件により絶望に突き落とす |
大庭葉蔵の生涯と心理的な変化
葉蔵の生涯は、幼少期から人間社会との間に深い溝を感じていたことに始まります。「人間の生活というものが、見当つかないのです」という言葉は、彼の生来的な疎外感を象徴しています。周囲の営みが理解できず、「自分には人の営み、人間の生活というものがさっぱりわからない」という感覚が常に彼を苛みました。
この根源的な疎外感から、葉蔵は他人を恐れ、拒絶されることを恐れるようになります。その結果、自己防衛の手段として「道化」を演じることを選びます。表面的な明るさで内面の臆病さや不信感を隠そうとしましたが、中学時代に竹一に見破られ、激しい動揺と恐怖を覚えます。この経験はトラウマとなり、その後の人間関係でも仮面を被り続ける要因となりました。
青年期には、悪友・堀木正雄との出会いをきっかけに悪徳に手を染めます。堀木との関係は一時的な逃避を与えましたが、破滅的な傾向を加速させ、葉蔵の孤独感を深めます。ツネ子との心中未遂事件は大きな転換点となり、ツネ子の死と自身の生存は深い罪悪感と社会的孤立をもたらし、精神状態をさらに不安定にさせました。
その後、シヅ子とその娘シゲ子との生活で一時的な安らぎを得るも、自ら身を引きます。煙草屋の娘ヨシコとの内縁関係では、純粋な愛情に触れ幸せを期待しますが、ヨシコが暴行される悲劇に見舞われ、希望は打ち砕かれます。この事件は人間不信を決定的なものとし、アルコールや薬物への依存を深めるきっかけとなります。
薬物中毒となった葉蔵は精神病院へと送られ、「人間、失格」という烙印を自らに押します。退院後、故郷に戻った葉蔵は、もはや幸福も不幸も感じない虚無的な状態に陥ります。
彼の心理的な変化は、幼少期の疎外感から始まり、青年期の混乱と罪悪感、そして晩年の絶望と無感覚へと、徐々に破滅へ向かう過程として描かれています。しかし、物語の最後に語られるバーのマダムの言葉「神様みたいないい子でした」は、葉蔵の根底にあった純粋さや優しさを暗示しており、彼の生涯を単純な「失格」として断じることの難しさを示唆しています。
『人間失格』の主要なテーマ
『人間失格』には、いくつかの主要なテーマが深く掘り下げられています。
- 疎外と孤独:主人公・葉蔵は幼い頃から人間社会に馴染めず、常に孤独を感じています。周囲の人々が理解し合って生きているように見えることに疑問を抱き、自分だけがその輪に入れない感覚に苦しみます。
- 道化の仮面:他人を恐れるあまり、本心を隠し、滑稽で明るい「道化」を演じることで、辛うじて世間との繋がりを保とうとします。しかし、この仮面は彼にとって大きな苦痛であり、「恥ずかしい、恥ずかしい」と手記の中で何度も語っています。
- 人間関係の難しさ:葉蔵は他者との関係に常に悩み、苦しんでいます。人を極度に恐れながらも、人と繋がりたいという矛盾した感情を抱えています。しかし、過去の経験や内面的な問題から健全な関係を築けず、孤立を深めます。
- 自己否定と自己肯定の狭間:葉蔵は自身を「人間失格」だと考え自己否定する一方で、他者からの承認を求めています。この自己否定と自己肯定の間で揺れ動く心の葛藤が、彼の苦悩を深めています。
- 社会と個人の対立:葉蔵にとって「世間」とは理解しがたいものであり、常に彼を苦しめる存在として描かれます。「世間というのは、君じゃないか」という言葉は、世間という抽象的な概念ではなく、個々の他者との関係性の中にこそ問題があるという彼の認識を示唆しています。
作者の意図と自伝的背景
『人間失格』は、作者である太宰治自身の生涯と多くの共通点を持つ、非常に自伝的な作品として知られています。太宰自身も、裕福な家庭に生まれながら社会に馴染めず、アルコールや薬物依存、数々の自殺未遂を経験しており、これらの経験が葉蔵の人生に色濃く反映されています。そのため、『人間失格』は太宰自身の魂の叫び、あるいは遺書のような作品として捉えられることもあります。
太宰は、この作品を通じて、自身の抱える孤独や苦悩、社会への不適合感を赤裸々に描き出し、読者に問いかけたかったのではないでしょうか。社会の規範や価値観に馴染めない人間の苦しみを描くことで、人間の存在や社会のあり方について深く考察しようとしたと考えられます。
また、葉蔵の「人間失格」という自己否定の言葉を通して、「何をもって人間と呼ぶのか」「人間として生きるとはどういうことなのか」という根源的な問いを読者に投げかけているとも言えるでしょう。
物語の結末におけるバーのマダムの言葉「神様みたいないい子でした」は、太宰の意図を読み解く上で重要な要素です。この言葉は、葉蔵の生涯を否定的に捉えるだけでなく、彼の根底にあった純粋さや善良さを暗示しています。これは、太宰自身が自己を否定的に捉えながらも、どこかで救いを求めていた心情の表れなのかもしれません。
まとめ
『人間失格』は、大庭葉蔵という一人の男の破滅的な生涯を通して、人間の孤独、疎外感、そして社会との不適合という普遍的なテーマを深く掘り下げた作品です。
太宰治自身の経験が色濃く反映されたこの小説は、発表から70年以上経った今もなお、多くの読者の心を捉え、問いかけ続けています。葉蔵の苦悩は、現代社会を生きる私たちにとっても決して他人事ではなく、自己のあり方や他者との関係性について深く考えさせられるでしょう。